
前回、ロバ飼いの兄ちゃんの甘言(?)にまんまとノセられたちーけんさん。
切り立った崖の上、崩れそうな山道でロバに乗るハメになり、転落死の恐怖に震えながらペトラ遺跡を観光しました。
ようやくたどり着いた最奥部のエド・ディル(修道院)を堪能し、今回は、ペトラ遺跡の復路編になります。
山頂のエド・ディル(修道院)から30分ほどかけて山道を戻りました。
山を下りきると、ペトラ遺跡内唯一のレストランなどもある賑わったエリアに出ます。
ここから遺跡の出口まで、寄り道せずに歩けば1時間半ほど。
往路、ロバに揺られて別ルートを進んでしまったちーけんさんは、このあたりにある遺跡を観光できていません。
とりあえず、レストランで昼飯を取ることにしました。
レストランは、お一人様20ディナール(3千円!)のビュッフェのみという観光地価格。
ここしかご飯を食べるところがないので(軽食をとれるカフェもどきはありますが)、しかたなくここで食べました。
……レストランや料理の写真撮ったはずなのに、なぜか残ってないので、文字だけの報告ですいません(なぜだ)。
さあ、お腹も満たしたところで、復路の観光に出発です。
レストランの周りには、遺跡が集中してまして、上の写真はその一つ、カスル・アル・ビントと呼ばれる神殿です。
紀元前1世紀に建築されました。
写真だとわかりにくいですが、かなりでかいです(高さ23メートル=ビル6階分くらいある)。
ペトラ遺跡についてはわかってないことが多いですが、この神殿も何の神を祀っていたのか、どの王が建てたのかなど、いまだ定説がないそうです。
近づいてみると、神殿上部のアーチは今にも崩れそうでした。
2千年経ってるんだもんなあ。
レストランの隣の建物には、「ペトラ博物館」が設置されています。
これがまあ、びっくりするくらいこぢんまりとした博物館でした(笑)。
5分もあれば見終わっちゃう感じ。
展示物も、あまり見るものがありません。
この彫像には目を惹かれました。
客もほとんどいません。
この日はかんかん照りの快晴!
…暑い! いや、熱い!
湿気こそないものの、日向を歩いていると、それだけで体力を奪われます。
ちーけんは今回、椎間板ヘルニアからの坐骨神経痛と腰痛を抱えた状態でヨルダンに来ています。
不安定な道をロバの背で揺られ、30分かけて山道を下ってきて、このとき疲労はMAX!
左足の坐骨神経痛もひどく、よろよろしながら炎天下を歩き回ってました。
写真は、ペトラ遺跡のメインストリート(?)「柱廊通り」。
1世紀に作られた舗装道路です。
いまもこの石畳の道の上を、観光客やロバ、馬車が行き来しています。
ちーけんは、ふうふう言いながら進んでいきました。
柱廊通りの真ん中にあるのが「凱旋門」。
門の上部は崩れてしまって柱しか残っていませんが、建造当時(2世紀)には、壮麗だったんでしょうねえ。
凱旋門から歩いて30秒くらいのところに、この「大神殿」があります。
建物はほとんど残っていませんが、広い!(下からの写真でわかりにくくてすいません)
階段が見えますが、その上に広い広いテラスというか、石が敷き詰められた神殿の敷地が広がっています。
階段を上って、神殿の最上部から撮ってみました。
建物が遺っていたら、まさに「大神殿」だったんでしょうねえ。
ちなみに、カラッカラの砂漠に見えますが、この大神殿には往時、水路が引かれて浴場や濠もあったそう。
このあたり、日陰になるものがまったくありません。
とにかく暑い。
マジに体力が限界に近づいてました。
でも、あと1時間以上歩かないと、遺跡の出口までたどり着けません。
のろのろと柱廊通りを歩いて行くと、前方に岩山が見えてきました(写真)。
いくつもの岩窟宮殿や墓が作られている、“王家の墓”です。
しかし遠い…。
砂道を歩くのは大変で、いくら歩いても進みません。
ぶっ倒れそうになりましたが、歩くしかないので、歯を食いしばって前に進みました。
“王家の墓”が見えてきました~。
わかりますか? 山肌を削って作られてます。
「王家の墓」では何カ所も修復工事がおこなわれていて、この炎天下、人夫の兄ちゃんたちが人力で土を運んでました。
カメラを向けたら、手を振ってくれました(笑)。
王家の墓は崖の中腹にあります。
自力で登らねばなりません。
正直、体力の限界で、もうここは諦めようかと思いました。
でも、ペトラ遺跡に来れることはもう二度とないだろうと思って、マジに泣きながら階段を上っていきました。
この階段は見た目より長くて、本当にキツかった……。
終わりかと思うと、まだ途中の踊り場という。
5分以上登ったんじゃないかな……。
ようやく、遺跡があるところまで上がってこれました。
微妙な土産物屋が列をなしています。
遺跡を実際に近くで見たら、「登ってよかったー!」と思いました(現金
これは「壺の墓」と呼ばれる宮殿跡で、名前の由来は、ファサードの上部に壺の彫刻があるから(笑)。
裁判所として使われたとも、紀元前のナバタイ王の墓ともいわれ、よくわかっていません。
中に入ると、涼しい!
広い!
崖をくり抜いた部屋なので、天井には天然の不思議な石の紋様が浮き出ています。
壺の墓のあるところから、下を見るとこんな感じ。
結構な高さにあるのがわかっていただけるかと。
何度も書きますが、本当に登るの大変でした(笑)。
王家の墓を堪能したちーけんさん。
遺跡の出口に向かって再び歩き始めました(へとへと
壺の墓から10分ほど歩くと、この「ローマ円形劇場」跡に出ます。
往路のちーけんは、この円形劇場近くでロバ飼いの兄ちゃんに捕まりました。
そのまま脇道を通ってエド・ディルまで行ったので、ようやくここで本来のルートに戻れたことになります。
土産物屋と休憩用のカフェがいくつかあり、一息つきました。
冷えたコーラで、生き返りました。
湿気のない暑さなので、日陰にさえ入れば、結構涼しいのです。
多少、元気を取り戻したちーけんさん。
遺跡出口に向かってずんずん歩きます。
民族楽器を弾く親子を発見。
チップをあげて写真を撮らせてもらいました。
胡弓みたいな楽器でした。
さらに20分ほど歩いて、朝方に往路で訪れたエル・ハズネ(宝物殿)に戻ってきました。
このとき、もう午後3時近く。
太陽も少し陰ってきて、エル・ハズネも午前とは違う色合いで見えますね。
ここから遺跡出口までは、残り1時間弱。
ゆるやかとはいえ上り坂になります。
そのため、遺跡回りでへとへとになった観光客を狙って、このあたりには夕方になると馬車引きの兄ちゃんたちが集結してきます。
「地球の歩き方」によれば、遺跡出口までは片道25ディナール(約3700円)とのこと。
えらく高いですが、車などが一切入ってこれない世界遺産の中でのこと、仕方ありません。
というか、ここからさらに1時間歩くのは絶対無理と思いました(弱音
高くてもいい、馬車に乗ろう――。
目の前に止まっていた馬車引きの兄ちゃんに声をかけました。
返ってきた答えは「50ディナール(約7500円)」。
こんなところで馬車に乗ろうとする客はへとへとになっていることがわかっているので、こちらの足元を見まくりです。
とはいえ、あまりの暴利。
「ノーサンキュー!」と言い捨てて、他の馬車を当たります。
何人目かで、「30ディナール」まで値段を下げてくる兄ちゃんに行き当たりました。
もう仕方ありません。
力なく「OK」と答えて、「トゥ ザ ゲート、30ディナール、OK?」と確認して馬車に乗り込みました。
ところが――。
ここでまたトラブルが!!!!!!!!!!(もう疲れた
ちーけんを乗せた馬車は、最初は普通に走り始めました。
ところが、御者の兄ちゃんが馬にビシビシとムチを入れ、ものすごい加速を始めるではありませんか。
これが尋常なスピードじゃない。
「うわああああ、暴れ馬(車)だあああああ!!!!!!」
と、叫ばれるだろうというくらいの爆速。
しかもでこぼこだらけの遺跡道です。
馬車から振り落とされそうというか、こんなのどこかにぶつかったら即死だわという恐怖!
このときちーけんはピンと来ました。
(ははあ、これは俺を怖がらせようとしているな)
なので、一切「ストップ!」とか「モア スロウリー!」とか言いませんでした。
何でもない風に「HAHAHAHA ナイススピード!」とか言って笑顔を浮かべてました。
もちろん、内心は恐怖で死にそうです。
馬はビッシビシにムチを入れられ、まさに暴れ馬状態でデコボコ道を疾走していきます。
マジに死ぬかと思いましたが、案の定――。
いまだ遺跡の出口に着かないのに、馬車が急に止まりました。
馬車引きの兄ちゃんがくるりと後ろを振り向いてきました。
悪そうな顔で言ってきたのが、
「ここが終点だ。30ディナール払え」
もちろん、ちーけんは猛抗議。
「ノー! さっき遺跡出口まで30ディナールと確認したはずだ!」
このまま馬車に乗っていると、どこに連れて行かれるのかわからないので、モメた時点でサッと馬車からは降りてます。
だが、兄ちゃんも一歩も引きません。
「30ディナール払え、この先は、そこにいる別の馬車に乗れ」などと言ってきます。
約束通り遺跡出口まで行けと怒鳴って、かなりやり合いました。
回りには彼の仲間がニヤニヤしながら待機しています。
まったくらちがあきません。
暴力を振るわれたりしたら、多勢に無勢。
とても勝ち目はありません。
悔しいですが、大事になる前にあきらめることにしました。
回りに通りすがりの欧米人の観光客などがいることを確認したうえで、正価の25ディナールだけを叩きつけました。
くるっと後ろを向いて歩き出す時に、殴られたらどうしようと怖かったですが(なので、外国人観光客が回りにいるかどうか確認した)、追いかけてくる気配がなかったのでホッとしました。
とはいえ、道のりの半分くらいのところで下ろされてしまったので、遺跡出口までまだ30分近くはあるはず。
しかたないので歩きました。
「へへーん、こんなのへっちゃらだよ~ん」という感じでできるだけ元気に歩きましたが(無駄な努力)、奴らは見ていたのかどうか(笑)。
遺跡出口に着いた時には、午後4時を過ぎていました。
駐車場で、ちーけん専用車のドライバー・ジハードさんと合流して、ホッとしました。
波乱続きのペトラ遺跡観光もこれにて終了です。
ここからは、専用車に乗ること約3時間、あの有名な「死海」に向かいます。
…と、ペトラ遺跡の駐車場から走り出してすぐに、ジハードさんが
「アイン・ムーサに寄っていこう」
と言います。
なんじゃそりゃと思いましたが、ジハードさんの英語での説明がよく聞き取れません。
まあ行きゃわかるだろ…と、身を任せました。
ジハードさんはこぢんまりとした建物の前で車を止めました。
なんだこれ、雑貨屋か? と思いましたが、さにあらず。
中に入ると、なんだか綺麗な水が流れる水路と水汲み場みたいなものがありました。
ここで何度もジハードさんの英語を聞き返して、ようやく理解できました。
「アイン・ムーサ」は「モーゼの泉」という意味で、旧約聖書に出てきます。
モーゼが杖で岩を叩くと、そこから清水が湧き出した――。
まさにここ「アイン・ムーサ」がその「モーゼの泉」なのです。
この岩こそが、ウン千年の昔にモーゼが杖で割った岩だそう。
うへえ、ありがたや! と思って、ちーけんは結構感激しながら写真を撮りました。
ところが、帰国してから調べると――。
ヨルダンやエジプト、イスラエルなどに「ここが本物のアイン・ムーサ」という場所が何十カ所もあるようです(笑)。
なんだその“本家争い”みたいなのは……。
というわけで、ここが本物の「アイン・ムーサ」かどうかはわかりませんが、大変心に残るスポットでありました。
炎天下のペトラ遺跡を一日中歩いてへとへとになってるちーけんさん。
車の中ですぐにウトウトし始めました。
そのまま2時間ほど車中で熟睡。
ジハードさんに、「ちーけん、休憩しましょう」と声をかけられて目が覚めました。
外に出ると、ジハードさんが遠くを指さして「あれが死海だよ」と教えてくれました。
もやってて見にくいですが……。
子供のころに、学研の学習漫画を読んで初めて「死海」を知ったちーけんさん。
塩分の濃度が濃いため、どんな人でもプカプカと浮かんでしまう――。
「そんな不思議なことがあるのか!」と胸をときめかせました。
あれから30年……。
まさにその“不思議の湖”を肉眼で見ることができて、ちーけんは大感動してました(笑)。
今晩は、死海のほとりに建つホテルを予約しています。
まだここから1時間近くかかるとのこと、再び車中の人となりました。
死海は、ヨルダンとイスラエルの国境にあります。
驚くほど南北に長くて、東西の幅は10キロほどですが、南北には50キロ以上の長さがあります。
その岸辺に沿って、こんな道路が南北にまーーーーーっすぐ走ってます。
写真の左手が死海の岸辺です。
ペトラを出発したのが午後4時くらいでしたが、このときもう6時を過ぎてました。
死海の向こうはイスラエル。
夕日が沈んでいきます。
塩分濃度が世界で一番濃い湖である死海。
岸辺は干上がった塩に覆われ、溶けきらない塩の塊がいくつも沈んでました。
ついに日没。
夜7時くらいだったかな。
ほどなくホテルに到着しました。
死海のほとりに立つ五つ星リゾートホテル、「モーベンピック・デッドシー」です!
日本で「死海」というと、塩分が濃くてプカプカ浮かぶ不思議な湖、くらいにしか思われてませんが――。
死海にはもう一つの「世界一」があります。
世界で一番、標高が低いところにある湖でもあるのです。
海抜でいうとマイナス400メートルという超・低地に死海はあります。
地球上で一番くぼんでる場所でもあるんですね、ここは。
すると、どうなるか。
他の土地と比べると、死海は400メートルも分厚い空気の層に覆われてることになります。
富士山のような高い山に登ると、空気が薄くなって、紫外線を浴びやすくなりますよね。
その逆で、世界で一番低い場所、海面よりも400メートルも低い場所に死海はあります。
そのぶん分厚い空気の層に覆われていることになるわけです。
つまり、お肌に有害な紫外線も届きにくい。
日本の夏の海辺で日焼けすると、紫外線で肌が焼けてひりひりしますよね。
ところが死海では、一日中肌を焼いても、紫外線による悪影響をほとんど受けません。
そして、死海の水は塩分だけでなく、その他のミネラル分も豊富に含んでいるため、これもお肌にいい。
このため、じつは死海は欧米のセレブが集まる、一大リゾート地になっているのでした。
ちーけんも、ヨルダンに来るまでまったく知らなかったのですが…。
死海のほとりには、このモーベンピックホテルだけでなく、ケンピンスキーやマリオットといった国際ホテルチェーンが、5つ星の超高級ホテルを林立させています。
これらの高級リゾートホテルは、巨大(本当に巨大)な敷地に、レストランやバー、テニスコート、サッカー場、ダンスクラブ、コンサート会場、庭園、プールetc.…などの無数の設備を備えた数十の建物を備えています。
上の写真の建物、けっこう立派ですよね。
でもこれはフロントとレストランが2つほど入ってるだけのロビー棟。
これと同じくらいの建物が敷地内に数十あるんです。
モーベンピックホテルの敷地を端から端まで歩くと、ゆうに20分以上かかりますよ。
ロビーも豪華でした。
フロントのお兄さんは、さすが高級リゾートのホテルマンだけあって、笑顔で親切。
綺麗な英語で館内施設の説明をしてくれました。
でも、ちーけんの英語力では2割も聞き取れず……。
ロビー棟からちーけんの部屋までの行き方も、丁寧に教えてくれましたが、ほとんどわかりません。
まあ、地図があるから自力でいけるだろ! そう思ったのですが――。
ロビー棟を出たら、無数の建物が建ってました。
まるで迷路のようです。
ちーけんの泊まる部屋は「T棟」の2号室のはずでしたが、見つかりません。
地図を見ながら、自分の部屋を探しましたが、完全に道に迷いました(笑)。
途方に暮れていると、ゴルフ場でよく見るカートみたいなのを運転するおじさんを発見。
広い敷地内を移動するためのものだそう。
手を振っておじさんを呼び止めて、なんとかT棟にたどりつけました。
とほほ。
でも、雰囲気はめっちゃいいでしょ?
ようやくたどり着いた、ちーけんの泊まるT棟。
こういうメゾネットというかコテージみたいな宿泊棟が無数に建ってます。
ちーけんは安い部屋(といっても一泊2万円以上した)でしたが、もちろんもっと高い、一軒家タイプの部屋もありました。
部屋の入口はこんな感じ。
雰囲気いい~。
さあ、部屋の中はどうでしょう……。
いいお部屋でした~~~~!!!
右手がバスルーム、奥がベッドルームです。
大理石の床に、味のある木製家具が置いてあり、居心地よかった!
シャワールームが独立していて高得点。
トイレももちろん清潔でした。
ベッドルームはこんな感じ。
1人ぼっちで泊まるのがちょっともったいなかったです。
荷物を整理して外に出ると、真っ暗でした。
自分の部屋の場所を今度は忘れないように、慎重に道を覚えながらロビー棟に戻りました。
中にあるビュッフェレストランで夕食をとります。
モーベンピックホテルの中には、10以上のレストランがありました。
フランス料理、イタリアン、日本料理、エスニック、中華料理etc.…。
この日はペトラ遺跡観光で疲れ切ってたので、注文とかで頭を使わないでいい、ビュッフェレストランにしてしまいました。
味はよかったし、スイーツも充実していて堪能したんですが……。
さすが5つ星ホテル。
この夕食だけで4000円も取られました!
高級リゾートホテル怖いぃぃいい。
この後はすぐに自室に戻り、バタンキューで寝ました。
もう疲れ切ってて……。
明日は、念願の死海に浮かび、午後は死海周辺を観光する予定。
トラブル続きの旅ですが、毎日まったく違うタイプの観光ができて、大満足のちーけんさんでした。
…というところで、ヨルダン旅行記第5回終了です。
今回は、あまり面白いところもなくて失礼しました。
次回は、念願の死海ザブ~ンから、ヨルダンの渓谷をトレッキングしたり、謎のミステリースポットを訪ねたりと盛りだくさんの予定です。
ぜひ次回もお読みいただければ嬉しい限りです!
最後におまけ。
昼間、暑さに苦しんで観光したペトラ遺跡ですが、じつはその前の晩に「ペトラ・バイ・ナイト」というイベントに参加してきました。
ロウソクのあかりだけを頼りに、夜のペトラ遺跡を観光するイベントです。
夜のペトラ遺跡を、遺跡入口から1時間近く歩いて、エル・ハズネ(宝物殿)まで行きました。
すると、その前を埋め尽くしていたのは、無数のロウソク!
ほのかな光に照らされて、エル・ハズネが闇の中に浮かび上がるさまは圧巻でした。
そして始まるヨルダンの伝統音楽の生演奏と、ダンス。
観客にはお茶も振る舞われ、1時間近く堪能しました。
それでは、今回もお読みくださってありがとうございました!
切り立った崖の上、崩れそうな山道でロバに乗るハメになり、転落死の恐怖に震えながらペトラ遺跡を観光しました。
ようやくたどり着いた最奥部のエド・ディル(修道院)を堪能し、今回は、ペトラ遺跡の復路編になります。

山頂のエド・ディル(修道院)から30分ほどかけて山道を戻りました。
山を下りきると、ペトラ遺跡内唯一のレストランなどもある賑わったエリアに出ます。
ここから遺跡の出口まで、寄り道せずに歩けば1時間半ほど。
往路、ロバに揺られて別ルートを進んでしまったちーけんさんは、このあたりにある遺跡を観光できていません。
とりあえず、レストランで昼飯を取ることにしました。
レストランは、お一人様20ディナール(3千円!)のビュッフェのみという観光地価格。
ここしかご飯を食べるところがないので(軽食をとれるカフェもどきはありますが)、しかたなくここで食べました。
……レストランや料理の写真撮ったはずなのに、なぜか残ってないので、文字だけの報告ですいません(なぜだ)。
さあ、お腹も満たしたところで、復路の観光に出発です。
レストランの周りには、遺跡が集中してまして、上の写真はその一つ、カスル・アル・ビントと呼ばれる神殿です。
紀元前1世紀に建築されました。
写真だとわかりにくいですが、かなりでかいです(高さ23メートル=ビル6階分くらいある)。
ペトラ遺跡についてはわかってないことが多いですが、この神殿も何の神を祀っていたのか、どの王が建てたのかなど、いまだ定説がないそうです。

近づいてみると、神殿上部のアーチは今にも崩れそうでした。
2千年経ってるんだもんなあ。

レストランの隣の建物には、「ペトラ博物館」が設置されています。
これがまあ、びっくりするくらいこぢんまりとした博物館でした(笑)。
5分もあれば見終わっちゃう感じ。

展示物も、あまり見るものがありません。
この彫像には目を惹かれました。
客もほとんどいません。

この日はかんかん照りの快晴!
…暑い! いや、熱い!
湿気こそないものの、日向を歩いていると、それだけで体力を奪われます。
ちーけんは今回、椎間板ヘルニアからの坐骨神経痛と腰痛を抱えた状態でヨルダンに来ています。
不安定な道をロバの背で揺られ、30分かけて山道を下ってきて、このとき疲労はMAX!
左足の坐骨神経痛もひどく、よろよろしながら炎天下を歩き回ってました。
写真は、ペトラ遺跡のメインストリート(?)「柱廊通り」。
1世紀に作られた舗装道路です。
いまもこの石畳の道の上を、観光客やロバ、馬車が行き来しています。
ちーけんは、ふうふう言いながら進んでいきました。

柱廊通りの真ん中にあるのが「凱旋門」。
門の上部は崩れてしまって柱しか残っていませんが、建造当時(2世紀)には、壮麗だったんでしょうねえ。

凱旋門から歩いて30秒くらいのところに、この「大神殿」があります。
建物はほとんど残っていませんが、広い!(下からの写真でわかりにくくてすいません)
階段が見えますが、その上に広い広いテラスというか、石が敷き詰められた神殿の敷地が広がっています。

階段を上って、神殿の最上部から撮ってみました。
建物が遺っていたら、まさに「大神殿」だったんでしょうねえ。
ちなみに、カラッカラの砂漠に見えますが、この大神殿には往時、水路が引かれて浴場や濠もあったそう。

このあたり、日陰になるものがまったくありません。
とにかく暑い。
マジに体力が限界に近づいてました。
でも、あと1時間以上歩かないと、遺跡の出口までたどり着けません。
のろのろと柱廊通りを歩いて行くと、前方に岩山が見えてきました(写真)。
いくつもの岩窟宮殿や墓が作られている、“王家の墓”です。
しかし遠い…。
砂道を歩くのは大変で、いくら歩いても進みません。
ぶっ倒れそうになりましたが、歩くしかないので、歯を食いしばって前に進みました。

“王家の墓”が見えてきました~。
わかりますか? 山肌を削って作られてます。

「王家の墓」では何カ所も修復工事がおこなわれていて、この炎天下、人夫の兄ちゃんたちが人力で土を運んでました。
カメラを向けたら、手を振ってくれました(笑)。

王家の墓は崖の中腹にあります。
自力で登らねばなりません。
正直、体力の限界で、もうここは諦めようかと思いました。
でも、ペトラ遺跡に来れることはもう二度とないだろうと思って、マジに泣きながら階段を上っていきました。

この階段は見た目より長くて、本当にキツかった……。
終わりかと思うと、まだ途中の踊り場という。
5分以上登ったんじゃないかな……。

ようやく、遺跡があるところまで上がってこれました。
微妙な土産物屋が列をなしています。

遺跡を実際に近くで見たら、「登ってよかったー!」と思いました(現金
これは「壺の墓」と呼ばれる宮殿跡で、名前の由来は、ファサードの上部に壺の彫刻があるから(笑)。
裁判所として使われたとも、紀元前のナバタイ王の墓ともいわれ、よくわかっていません。

中に入ると、涼しい!
広い!
崖をくり抜いた部屋なので、天井には天然の不思議な石の紋様が浮き出ています。

壺の墓のあるところから、下を見るとこんな感じ。
結構な高さにあるのがわかっていただけるかと。
何度も書きますが、本当に登るの大変でした(笑)。

王家の墓を堪能したちーけんさん。
遺跡の出口に向かって再び歩き始めました(へとへと
壺の墓から10分ほど歩くと、この「ローマ円形劇場」跡に出ます。
往路のちーけんは、この円形劇場近くでロバ飼いの兄ちゃんに捕まりました。
そのまま脇道を通ってエド・ディルまで行ったので、ようやくここで本来のルートに戻れたことになります。

土産物屋と休憩用のカフェがいくつかあり、一息つきました。
冷えたコーラで、生き返りました。
湿気のない暑さなので、日陰にさえ入れば、結構涼しいのです。

多少、元気を取り戻したちーけんさん。
遺跡出口に向かってずんずん歩きます。
民族楽器を弾く親子を発見。

チップをあげて写真を撮らせてもらいました。
胡弓みたいな楽器でした。

さらに20分ほど歩いて、朝方に往路で訪れたエル・ハズネ(宝物殿)に戻ってきました。
このとき、もう午後3時近く。
太陽も少し陰ってきて、エル・ハズネも午前とは違う色合いで見えますね。
ここから遺跡出口までは、残り1時間弱。
ゆるやかとはいえ上り坂になります。
そのため、遺跡回りでへとへとになった観光客を狙って、このあたりには夕方になると馬車引きの兄ちゃんたちが集結してきます。
「地球の歩き方」によれば、遺跡出口までは片道25ディナール(約3700円)とのこと。
えらく高いですが、車などが一切入ってこれない世界遺産の中でのこと、仕方ありません。
というか、ここからさらに1時間歩くのは絶対無理と思いました(弱音
高くてもいい、馬車に乗ろう――。
目の前に止まっていた馬車引きの兄ちゃんに声をかけました。
返ってきた答えは「50ディナール(約7500円)」。
こんなところで馬車に乗ろうとする客はへとへとになっていることがわかっているので、こちらの足元を見まくりです。
とはいえ、あまりの暴利。
「ノーサンキュー!」と言い捨てて、他の馬車を当たります。
何人目かで、「30ディナール」まで値段を下げてくる兄ちゃんに行き当たりました。
もう仕方ありません。
力なく「OK」と答えて、「トゥ ザ ゲート、30ディナール、OK?」と確認して馬車に乗り込みました。
ところが――。
ここでまたトラブルが!!!!!!!!!!(もう疲れた

ちーけんを乗せた馬車は、最初は普通に走り始めました。
ところが、御者の兄ちゃんが馬にビシビシとムチを入れ、ものすごい加速を始めるではありませんか。
これが尋常なスピードじゃない。
「うわああああ、暴れ馬(車)だあああああ!!!!!!」
と、叫ばれるだろうというくらいの爆速。
しかもでこぼこだらけの遺跡道です。
馬車から振り落とされそうというか、こんなのどこかにぶつかったら即死だわという恐怖!
このときちーけんはピンと来ました。
(ははあ、これは俺を怖がらせようとしているな)
なので、一切「ストップ!」とか「モア スロウリー!」とか言いませんでした。
何でもない風に「HAHAHAHA ナイススピード!」とか言って笑顔を浮かべてました。
もちろん、内心は恐怖で死にそうです。
馬はビッシビシにムチを入れられ、まさに暴れ馬状態でデコボコ道を疾走していきます。
マジに死ぬかと思いましたが、案の定――。
いまだ遺跡の出口に着かないのに、馬車が急に止まりました。
馬車引きの兄ちゃんがくるりと後ろを振り向いてきました。
悪そうな顔で言ってきたのが、
「ここが終点だ。30ディナール払え」
もちろん、ちーけんは猛抗議。
「ノー! さっき遺跡出口まで30ディナールと確認したはずだ!」
このまま馬車に乗っていると、どこに連れて行かれるのかわからないので、モメた時点でサッと馬車からは降りてます。
だが、兄ちゃんも一歩も引きません。
「30ディナール払え、この先は、そこにいる別の馬車に乗れ」などと言ってきます。
約束通り遺跡出口まで行けと怒鳴って、かなりやり合いました。
回りには彼の仲間がニヤニヤしながら待機しています。
まったくらちがあきません。
暴力を振るわれたりしたら、多勢に無勢。
とても勝ち目はありません。
悔しいですが、大事になる前にあきらめることにしました。
回りに通りすがりの欧米人の観光客などがいることを確認したうえで、正価の25ディナールだけを叩きつけました。
くるっと後ろを向いて歩き出す時に、殴られたらどうしようと怖かったですが(なので、外国人観光客が回りにいるかどうか確認した)、追いかけてくる気配がなかったのでホッとしました。
とはいえ、道のりの半分くらいのところで下ろされてしまったので、遺跡出口までまだ30分近くはあるはず。
しかたないので歩きました。
「へへーん、こんなのへっちゃらだよ~ん」という感じでできるだけ元気に歩きましたが(無駄な努力)、奴らは見ていたのかどうか(笑)。
遺跡出口に着いた時には、午後4時を過ぎていました。
駐車場で、ちーけん専用車のドライバー・ジハードさんと合流して、ホッとしました。
波乱続きのペトラ遺跡観光もこれにて終了です。
ここからは、専用車に乗ること約3時間、あの有名な「死海」に向かいます。
…と、ペトラ遺跡の駐車場から走り出してすぐに、ジハードさんが
「アイン・ムーサに寄っていこう」
と言います。
なんじゃそりゃと思いましたが、ジハードさんの英語での説明がよく聞き取れません。
まあ行きゃわかるだろ…と、身を任せました。

ジハードさんはこぢんまりとした建物の前で車を止めました。
なんだこれ、雑貨屋か? と思いましたが、さにあらず。
中に入ると、なんだか綺麗な水が流れる水路と水汲み場みたいなものがありました。
ここで何度もジハードさんの英語を聞き返して、ようやく理解できました。
「アイン・ムーサ」は「モーゼの泉」という意味で、旧約聖書に出てきます。

モーゼが杖で岩を叩くと、そこから清水が湧き出した――。
まさにここ「アイン・ムーサ」がその「モーゼの泉」なのです。
この岩こそが、ウン千年の昔にモーゼが杖で割った岩だそう。
うへえ、ありがたや! と思って、ちーけんは結構感激しながら写真を撮りました。
ところが、帰国してから調べると――。
ヨルダンやエジプト、イスラエルなどに「ここが本物のアイン・ムーサ」という場所が何十カ所もあるようです(笑)。
なんだその“本家争い”みたいなのは……。
というわけで、ここが本物の「アイン・ムーサ」かどうかはわかりませんが、大変心に残るスポットでありました。

炎天下のペトラ遺跡を一日中歩いてへとへとになってるちーけんさん。
車の中ですぐにウトウトし始めました。
そのまま2時間ほど車中で熟睡。
ジハードさんに、「ちーけん、休憩しましょう」と声をかけられて目が覚めました。
外に出ると、ジハードさんが遠くを指さして「あれが死海だよ」と教えてくれました。
もやってて見にくいですが……。
子供のころに、学研の学習漫画を読んで初めて「死海」を知ったちーけんさん。
塩分の濃度が濃いため、どんな人でもプカプカと浮かんでしまう――。
「そんな不思議なことがあるのか!」と胸をときめかせました。
あれから30年……。
まさにその“不思議の湖”を肉眼で見ることができて、ちーけんは大感動してました(笑)。
今晩は、死海のほとりに建つホテルを予約しています。
まだここから1時間近くかかるとのこと、再び車中の人となりました。

死海は、ヨルダンとイスラエルの国境にあります。
驚くほど南北に長くて、東西の幅は10キロほどですが、南北には50キロ以上の長さがあります。
その岸辺に沿って、こんな道路が南北にまーーーーーっすぐ走ってます。
写真の左手が死海の岸辺です。

ペトラを出発したのが午後4時くらいでしたが、このときもう6時を過ぎてました。
死海の向こうはイスラエル。
夕日が沈んでいきます。

塩分濃度が世界で一番濃い湖である死海。
岸辺は干上がった塩に覆われ、溶けきらない塩の塊がいくつも沈んでました。

ついに日没。
夜7時くらいだったかな。
ほどなくホテルに到着しました。

死海のほとりに立つ五つ星リゾートホテル、「モーベンピック・デッドシー」です!
日本で「死海」というと、塩分が濃くてプカプカ浮かぶ不思議な湖、くらいにしか思われてませんが――。
死海にはもう一つの「世界一」があります。
世界で一番、標高が低いところにある湖でもあるのです。
海抜でいうとマイナス400メートルという超・低地に死海はあります。
地球上で一番くぼんでる場所でもあるんですね、ここは。
すると、どうなるか。
他の土地と比べると、死海は400メートルも分厚い空気の層に覆われてることになります。
富士山のような高い山に登ると、空気が薄くなって、紫外線を浴びやすくなりますよね。
その逆で、世界で一番低い場所、海面よりも400メートルも低い場所に死海はあります。
そのぶん分厚い空気の層に覆われていることになるわけです。
つまり、お肌に有害な紫外線も届きにくい。
日本の夏の海辺で日焼けすると、紫外線で肌が焼けてひりひりしますよね。
ところが死海では、一日中肌を焼いても、紫外線による悪影響をほとんど受けません。
そして、死海の水は塩分だけでなく、その他のミネラル分も豊富に含んでいるため、これもお肌にいい。
このため、じつは死海は欧米のセレブが集まる、一大リゾート地になっているのでした。
ちーけんも、ヨルダンに来るまでまったく知らなかったのですが…。
死海のほとりには、このモーベンピックホテルだけでなく、ケンピンスキーやマリオットといった国際ホテルチェーンが、5つ星の超高級ホテルを林立させています。
これらの高級リゾートホテルは、巨大(本当に巨大)な敷地に、レストランやバー、テニスコート、サッカー場、ダンスクラブ、コンサート会場、庭園、プールetc.…などの無数の設備を備えた数十の建物を備えています。
上の写真の建物、けっこう立派ですよね。
でもこれはフロントとレストランが2つほど入ってるだけのロビー棟。
これと同じくらいの建物が敷地内に数十あるんです。
モーベンピックホテルの敷地を端から端まで歩くと、ゆうに20分以上かかりますよ。

ロビーも豪華でした。
フロントのお兄さんは、さすが高級リゾートのホテルマンだけあって、笑顔で親切。
綺麗な英語で館内施設の説明をしてくれました。
でも、ちーけんの英語力では2割も聞き取れず……。
ロビー棟からちーけんの部屋までの行き方も、丁寧に教えてくれましたが、ほとんどわかりません。
まあ、地図があるから自力でいけるだろ! そう思ったのですが――。



ロビー棟を出たら、無数の建物が建ってました。
まるで迷路のようです。
ちーけんの泊まる部屋は「T棟」の2号室のはずでしたが、見つかりません。
地図を見ながら、自分の部屋を探しましたが、完全に道に迷いました(笑)。
途方に暮れていると、ゴルフ場でよく見るカートみたいなのを運転するおじさんを発見。
広い敷地内を移動するためのものだそう。
手を振っておじさんを呼び止めて、なんとかT棟にたどりつけました。
とほほ。
でも、雰囲気はめっちゃいいでしょ?

ようやくたどり着いた、ちーけんの泊まるT棟。
こういうメゾネットというかコテージみたいな宿泊棟が無数に建ってます。
ちーけんは安い部屋(といっても一泊2万円以上した)でしたが、もちろんもっと高い、一軒家タイプの部屋もありました。

部屋の入口はこんな感じ。
雰囲気いい~。
さあ、部屋の中はどうでしょう……。

いいお部屋でした~~~~!!!
右手がバスルーム、奥がベッドルームです。
大理石の床に、味のある木製家具が置いてあり、居心地よかった!

シャワールームが独立していて高得点。
トイレももちろん清潔でした。

ベッドルームはこんな感じ。
1人ぼっちで泊まるのがちょっともったいなかったです。

荷物を整理して外に出ると、真っ暗でした。
自分の部屋の場所を今度は忘れないように、慎重に道を覚えながらロビー棟に戻りました。
中にあるビュッフェレストランで夕食をとります。

モーベンピックホテルの中には、10以上のレストランがありました。
フランス料理、イタリアン、日本料理、エスニック、中華料理etc.…。
この日はペトラ遺跡観光で疲れ切ってたので、注文とかで頭を使わないでいい、ビュッフェレストランにしてしまいました。
味はよかったし、スイーツも充実していて堪能したんですが……。
さすが5つ星ホテル。
この夕食だけで4000円も取られました!
高級リゾートホテル怖いぃぃいい。
この後はすぐに自室に戻り、バタンキューで寝ました。
もう疲れ切ってて……。
明日は、念願の死海に浮かび、午後は死海周辺を観光する予定。
トラブル続きの旅ですが、毎日まったく違うタイプの観光ができて、大満足のちーけんさんでした。
…というところで、ヨルダン旅行記第5回終了です。
今回は、あまり面白いところもなくて失礼しました。
次回は、念願の死海ザブ~ンから、ヨルダンの渓谷をトレッキングしたり、謎のミステリースポットを訪ねたりと盛りだくさんの予定です。
ぜひ次回もお読みいただければ嬉しい限りです!
最後におまけ。
昼間、暑さに苦しんで観光したペトラ遺跡ですが、じつはその前の晩に「ペトラ・バイ・ナイト」というイベントに参加してきました。
ロウソクのあかりだけを頼りに、夜のペトラ遺跡を観光するイベントです。



夜のペトラ遺跡を、遺跡入口から1時間近く歩いて、エル・ハズネ(宝物殿)まで行きました。
すると、その前を埋め尽くしていたのは、無数のロウソク!
ほのかな光に照らされて、エル・ハズネが闇の中に浮かび上がるさまは圧巻でした。
そして始まるヨルダンの伝統音楽の生演奏と、ダンス。
観客にはお茶も振る舞われ、1時間近く堪能しました。
それでは、今回もお読みくださってありがとうございました!
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